博士課程3年間の総括

9月くらいに個人的な振り返りとしてまとめようしていた文章が、やっと書きあがった。

2017年当時、修士で学生生活を終えて会社に入った時点で「研究を続ければよかったな」という気持ちがあった*1。もともと「こうなりたい/こうありたい」のモチベーションではなかったので、そのモチベーションのあり方を私自身当時から危惧していたと記憶している.ただ同時に,やってみて初めて見える景色もあると思っていて、その答えをそこに期待していた部分もあった。

進学するかは相当悩んだけれど、結果的に2020年10月に3年半勤めた会社を辞めて博士課程に進学し、2023年9月に無事修了することができた。やってみてどうだったか、どう思ったかを、改めて考えを整理するためにまとめておきたいと思う。基本的にはn=1の感想かつ自分用の振り返りなので、この記録を読む方は「まあそういうやつもいるか」くらいの気持ちで読んでいただきたい。

 

【博士に進学して良かったこと】

① 研究の営みが好きだということを再確認できた

3年間の研究の中では、うまくいかないことのほうが多かった。大した業績も残せていない。でも、研究の営み自体は間違いなく好きだと言える。調べて、検証して、整理して、考察して、議論する。この営みが好きだということは、この先もずっと変わらないと思っている。

ただし、進学する前から危惧していたことだけれども、研究で世界で一番になりたいとか、生命の神秘を解き明かしたい、みたいものが自分を駆動していないということもこの3年間で再確認できた。どちらかというと、より基礎的・学術的なアプローチから課題解決を試みることが好きだということが分かった。この課題にもこだわりがなくて、課題が解決されて誰かがハッピーになるようなことであれば、それでいい。この確信もまた、博士課程の生活の中で所属以外の研究者の方たちと話すことがなければ得られなかったと思うので、それはそれで進学してよかったことの一つだと思う。

 

② 新しく始めることに腰を据えてひたすら取り組む経験ができた

これ自体は会社でも経験できることかもしれない。特に、部署異動をさせずに一つのテーマを研究・開発させてくれる会社では問題ないとは思う。ただ、私の場合はできなかった。会社員の時には、開発を進める中でCFDとかできたらできたらいいんだろうなと思って、本を買って PCでぽちぽち解析をしようとしていた時期もあった。とはいえ正直、業務以外の時間でゼロから身につけるのは無理だった。そして、部署も変わったのでやる意義を見失い、買った本は本棚の肥やしになってしまった。

博士から取り組んだ研究が論文として書きあがったのは2年半経ってからのことで、会社ならこんな悠長なことはできないと思う*2。研究期間のうちの1年はRのコーディングの勉強をしているような状態が続いていた*3ので、新しくゼロから何かを覚えることは簡単にできるものではないなと思う。コーディングに加えて、修士の時は全く扱ったことがなかったメタボロームデータやゲノムデータ(私の場合、メタ16Sだけど)を扱うようにもなったので、それもゼロベースからの勉強尽くしだった。

とはいえ、こんな感じでゼロの状態から広く浅く手を広げて研究を始めても、3年ないし2年やり続ければ一つの論文にまとめられる程度のレベルには到達した。このことは、「やってみて、続けてみて、頑張っていけばできるだろう」と、これから出会うことに対しても自信を持ってそう思える自分の根拠あるいは納得につながったと思う。

 

③ 博士・アカデミアに固執しなくなった(なってきた)

博士号には更新制度もなく一度取ればそれっきりなので、固執しようがないのは当たり前のことではある。ただ、「博士号は足の裏の米粒だ」と言われるように、取っても食えないけれど取らないと気持ち悪いという表現は、改めてその通りだなと強く実感した。博士号を取ること自体はたぶん万人に対しておすすめできるものではない。私の場合は、博士号を取ることが「自分の中に何か引っかかっていたものを取り去る禊のような行為」で、取らない限りはどうにもならないことだったから取ったということでしかない。

アカデミアに固執しなくなった(なってきた)のは、前述の解析スキルを身につけられた部分が大きい。このことは、私の中での研究という概念を変えるきっかけにもなったと思う。実験系の人たちは、ややもするとスキルや研究テーマ自体が実験装置と一蓮托生になりがちで、研究装置のある場所にいろいろなものが縛られてしまう。例えば、私の研究では700MHzクラスのNMRを使ったけれど、このクラスであれば装置だけで1億弱はするし、液体ヘリウムや窒素の維持管理や試薬だけでも馬鹿にならない費用がかかる。低磁場のNMRでも、NMRが高価で場所を取ることを考えると、NMRを持っている大学や企業は限られるだろうし、必然的に研究する場所も限られる。加えて、いつでも自由に実験できるということにもならないと想像する。NMRを使う研究をあきらめてしまえば、NMRそのものに関するスキル自体は無駄になるかもしれない。

一方で、データ解析であれば必要なのはPCだけであって、高額な研究装置に縛られることはない*4。このデータ解析の中だけでも、データ解析でのアイディアを試して試行錯誤するという研究をサイクルを回すことができるし、私の中では実験系(ウェット)のそれと可換な存在だということも分かった。

私が博士の研究で書いた論文では、データから仮説を提案するまでを一つのストーリーとしてまとめた。ウェットの部分もあるけど、この論文でドライの解析から重要な発見(仮説)を引き出せるということを実感できたのは、大きな経験になったと思う。その結果として、あまりウェットの実験環境に固執しなくても、楽しく研究できる環境があるんじゃないかなと思うに至った。もちろん、できるならデータ解析の結果を検証するためにウェットでの検証環境があったほうが良い。ただ、全てが揃っている環境はなかなかない。

ここまで、ウェットのスキルをネガティブなものとして主張してきたけれど、最近では博士のトランスファラブルスキルの活用という話もよく言われる。実験装置がなくても、装置の知識やスキル習得の過程で培った経験を他に生かせることは大いにあり得ることでもある。結局のところ、物は言いようだし見方次第なので、私自身がデータ解析のスキルを身に着けていなくても、こんな感じの主張をしていたかもしれない。

 

【博士に進学して悪かったこと】

① 経済的にはちょっと苦しい

私が編入学した10月は、引っ越しに、入学金、学費の支払いもあったので思いの外貯金がどんどんなくなっていくことにヒヤヒヤしていた記憶がある。とはいえ、大学の博士学生支援(独自の奨学金や学費免除)があったり、編入学した翌年の10月からはJSTの博士学生の支援の恩恵に預かることもできたりして、奨学金を借りたりバイトをしたりすることはなかった。もちろん、会社員の時のように貯蓄ができるわけはなく、収支はトントンといった感じだった。仙台でそうだったのだから、都市部であればもっと生活は厳しくなると思われる。

既にJSTの次世代研究者挑戦的研究プログラムも始まって2年が経過しているので、最新の情報は提供できないけれど、この支援を確実に受けたいのであれば進学先は旧帝大クラスに限られてくると思う。私の大学の場合はかなりの採用枠があったようで、学振に落ちた申請書を少し直して出せばだいたい採用されるような感じだったと聞いている。実際に私がそうだったし、所属していた研究室の留学生も提出した2人がもれなく採用された。たしか二人とも業績はなかったと思う。

もともとは、奨学金を借りることになってもD進する予定で、こういう支援のことは気にしていなかったのだけれど、タイミングよく博士学生の支援の恩恵を受けれられたのはかなり運が良かったと思う。とはいえ、お金がないと行動と思考に枷がかかってしまうこともあるので、そういう点で不自由なことは多かった。特に、最後の1年の精神的に負荷がかかっている時期は、自炊をする時間と気持ちの余裕もなかったので学食を使い倒していて、家計は火の車だった。

学問をするにはお金がかかるなあと思う、生活でも、研究自体でも。

 

② 結局はラボにいる人間次第の部分が大きすぎる

これに関しては愚痴っぽくならないように気をつけて書きたいとは思うのだけれど、たぶん愚痴に見えると思う。加えて、自分のことを棚に上げて書いている部分とあると思うので、そういう部分は読み流してもらいたい。

私の場合は、修士の時の研究室に出戻りする形で進学した。修士とは別の研究室を選んでブラック研究室を引き、研究室の勝手もわからない状態になるリスクを考えると、ベストではないけれどワーストでもないだろうと考えた結果の選択だった。しかし、実際のところほぼワーストの結果だったと思う。良かったこともあるけれど、トータルで見ると悪かったことのほうが多かった。

良かったことの一つは、信頼できる二人のラボスタッフがいたことだ。微生物関係の実験に関しては、修士時代から在籍していた実験補助の方に教えてもらうことができた。この方のおかげで3年間で修了できたといっても過言ではないと思っている。もう一人の研究員の方からは、教えてもらったというよりはお互い相談しあうような感じではあったけれど、時折私を心配してくれる言葉をかけてくれてありがたかった。この二人には本当に感謝している。

もう一つ良かったことは、共同研究という形で他の研究所と研究員さんとのつながりを持てたことだ。これは出戻りしたから良かったというよりは、運が良かったという話でしかない。この二つがなかったら、はっきり言って純度100%の失敗に感じたと思う。

悪かったことは、端的に言えば教員の能力不足に起因する部分が大きかった。修士からそのまま博士に進学した同期からは、教授が投稿論文を見てくれないという話を聞かされていた。さらに教授が研究費がとれなかったタイミングで在籍していたということもあり、資金面でも大変苦労したらしい*5。資金面の部分はともかく、他の博士の先輩もいらない苦労させられていたので、教授は頼れそうにないというのは入学当時から分かっていたことではあった。そこで、私の当初の計画としては助教を頼って研究をしていくつもりだった。進学前の打ち合わせでも、助教には新しいことをやっていくんだという気概があるように「見えた」。私自身も新しいことをしよう、チャレンジしようと思って博士に進学したわけで、助教のチャレンジしようとする態度は非常に好ましいものだと思っていたのだけれど、問題はこれが「ハリボテ」だったということであった*6。この「ハリボテ」に入学前から気づけていれば、出戻りという選択はなかったと思う。

ただの愚痴にならないように、どうすればよかったのかを考えておきたい。この経験から得られた私なりの教訓として、アカデミアの指導者には「(1)技術(実験に関する手技・知識)、(2)知識(研究領域の文献的知識)、(3)金、(4)ビジョン」の4つが必要であると思うに至った*7

もちろん全部兼ね備えているのが理想ではあるけれど、研究者の職位によって強弱があるのは仕方ないことでもある。助教であれば、技術と知識がマストで必要で、大きなグラントをまだ取れていないことは十分にあり得る。教授であれば最新の技術・知識に多少疎くても、お金とビジョンを持ってラボをマネジメントしていくことのほうが職務として重要になっていくと思う。

そして、注意が必要なのは、助教クラスの人間がビジョンを語っている場合で、自分の技術や知識をベースとせずに「誰かの語ったビジョンを鵜呑みにしてそのまま吐き出しているハリボテである可能性」がある。私はこれに気づけなかった*8。思えば、助教クラスの人間がハリボテかどうかを判断するのは、主著の論文をどれだけ持っているかどうかで簡単に判断できたと思う*9。論文の数は分野依存ではあるけれど、私の分野であれば平均して年1報以上のペースで主著の論文を出していれば、たぶん助教クラスの研究者としては十分と思われる*10。この助教の場合、博士時代で書いた2~3報以外に、まともなジャーナルに投稿した主著がほとんどなかった。ポスドク時代に書いた主著はなく、私が修士として所属していた時も論文は書いていなかった。私が出戻りする直前で書いたと見られる、助教の博士時代のデータを使って書いたMDPIの論文では、これはサラミ論文ではないかという辛辣なレビューを食らっていた。要するに、論文を全然書けない人だった。本人に論文を書く能力が備わっていないので、助教がコレスポになっている論文では結果が明らかに間違っているものもあった。人の能力を事前に判断するのは簡単ではないけれど、研究者の(1)技術と(2)知識を判断する材料としては「主著の論文の数」は嘘をつかないと思う。

(3)金を持っているか、は基本的には実験設備と研究員の人数を見ればすぐわかるだろう。研究員が多ければ人を雇用できる程度の予算を持っているという点で研究者を評価できる。その研究室出身以外の人であればなお良いと思う。また、博士学生にとっては、教員以外の人と相談・議論できる可能性があるということも大きなメリットになると思う。(4)ビジョンについては語れなければ論外だけれど、語っていることが正しいかはわからないので、信じたいものを信じればいいと思う。

話は変わるけれど、私の友人は所属ラボの教授にやられて1年休学していた。人に関する問題の改善は、人員の新陳代謝を促すしかないにもかかわらず、大学にそういう機能が備わっていないので何とかしないと大変なことになると思う(というかなっている)。それから、昨今では女性限定採用枠での教員公募の流れもあるけれど、たぶんこれもあまりいい結果を生まないだろうなと、目の前でそういう人材を見てきて強く思っている。愚痴。

 

【総評】

会社を辞めて博士課程に進学した結果、愚痴を言うようなこともあったけれど、トータルで見れば良かったと思う。悪かった部分は研究の本質ではないところであって、研究の営み自体は楽しく、自分の武器になるものを増やしてくれて、自分の特性の再確認にもつながった。当然、まともに研究のディスカッションのできる人が身近にいればもっと良かっただろうと思う。

 

【今後どうするか】

「研究を続ければよかった」というかつての気持ちに対しては、ある程度「やり切った」という気持ちになっている。もちろん研究に終わりはない。

会社を辞めたときの時点で、修了後の選択肢は「産」も「学」のどちらもあるだろうなと思っていた。現在は所属を変えたうえで学振PD(DC2からの資格変更)として学生の時のテーマを続けているけれど、ウェットの実験をするよりも、もっとデータ解析を深めていけたら面白いのかなと思っている。学生時代は他の人よりも手広くウェットの分析からドライのデータ解析までの膨大な作業をこなしたと思うのだけれど、博士課程だから何とかやり切れただけで、今後も一人でこれをやっていくのは現実的ではない。チームを作ればいいのだろうけど、そこまでして今の研究テーマをそのまま続けていくパッションはやっぱりない。そう考えると、データ自体は誰かが測定してくれたものを解析していくという環境に身を置いていく必要がある。そういう環境は産のほうが強いんじゃないかなと考えていて、そんなわけでぼちぼち就活も始めている。テーマに対する強いこだわりはないのだから、自分の満足を半分くらいは満たしてくれる営みができて、それが誰かの役に立つことになれば、たぶん上等だろう*11

ぼんやりと産と学を反復横跳びできるキャリアにしていくのも面白いかもしれないとも思っていて、その線が残るような手立ては考えていたりもする。

 

【社会人ドクターを考えている人へ】

アドベントカレンダーに登録したおかげ?で、会社を辞めるときの話を書いた文章へのアクセスが多いのでついでに書いておく。

個人的に「産」と「学」の行き来は活発になったほうがいいんじゃなかなと思っているので、気になっているのであればやっていたらいいんじゃないのと思う(無責任だけど)。稼いでる産のほうが偉いみたいな風潮はあるけれど、産でしかできないこともあれば学でしかできないこともあって、どちらが優れているという話でもない。

現所属の研究室にも、社会人ドクターをやっている方がいる。その方は、企業に在籍したまま業務とは直接関係のないテーマでウェットの実験もしているので、相当大変そうではある。有休をつぶしてゼミに参加したり、業務後の時間にデータの解析をしたりしていて、会社からのサポートも特にないらしい。他にも企業に在籍したまま社会人ドクターをやっていた方を知っているけれど、当時は特にサポートもなかったと言っていた。二人とも名の知れた大手企業の所属なのにも関わらずこの状態なので、日本の大手企業はどこもそんな感じなんだろう。もちろん、辞めても棘の道なので、どっちの棘に耐性がありそうか個々人で考えていくしかないのだろうと思う。

 

おわり

(もしコメントいただければ、そのあたり追記するかもです。)

*1:2020年6月 - いぬ小屋

*2:予備審直前で投稿して、minor revisionで返ってきたときはかなりホッとした

*3:実際は、合間にサンプリングや化学分析などのほかの作業もしているので、そこまではかかっていないかもしれない。

*4:誰が、どこで、データを取るかという話はあるが。

*5:過去の研究費で買ったストックの備品と物々交換で、実験に必要な備品などをそろえていたとか。

*6:1年経った時点でこの人とディスカッションしても意味がないと感じはじめ、2年目には完全に研究者としての能力がないことを確信した。

*7:コネとかもあればいいんだろうけど、最悪業績がしっかりあれば、そういうのは後からついてくるんじゃないかなと思っている。細かいことを言えば、マネジメント能力も必要だけれど、キリがないので4つに絞った。

*8:詳細は過去の記録を参照されたい。

*9:相当な力のある教授がいる場合はその限りではない。

*10:もちろん、真っ当なジャーナルに出していることは前提となる。

*11:あと、お給料。