2022年12月

大雪の中、山形で中高校生のポスター発表を聞きに行ってきた。賞をもらったこともないくせに、何の権利があって審査員なんかやってんだと自分でも思いながらも、中高生にいろいろと質問させてもらった。去年から、時折こうやって中高生の発表を聞かせてもらうたびに、自分も研究頑張んないとなーと思わせられることが多く、励みになる。

12月もあと数日しかないけれど、12月中に手持ちの2報のボールを投げられるようにする。絶対年跨ぎはしない。とりあえず、去年の12月の月記に書いてあったことをもとに、今年の反省をつらつらと書いておく。

今年度はハードなサンプリングをしないので、英語とか勉強できるとか宣っていたけれど、結局これまでに取ったサンプル量が多かったので、その処理で精一杯になり、勉強は全然できなかった。まだまだ、データドリブン研究のしんどさを理解していなかったと思う。一般的にそうなのか、自分の能力不足が原因なのかは判断できていないけれど、自分の中で+αの勉強、研究をする余力を作るにはデータ解析だけに専念できる環境(=サンプルの測定をしなくてもいい環境)でないと難しそう。

生活面は基本お金で時間を買うスタイルにしたのは良かったと思う。そもそも、JSTでの採択がなかったらできなかったので、JSTに感謝。出費は大きいけれど、特に最近は晩ごはんもすべて学食なりお弁当なりで済ませているおかげで、生活はだいぶ楽。健康かどうかは知らない。

論文はもう必要な時に必要な分だけ読むスタイルであきらめている。話はそれるけど、文献に関して、つい最近Scansnapを買って英文法書とか教科書とかをにしてメンデレーに突っ込んで使うようにしてみたら非常に便利だった。もっと前からやっておけばよかったとすら思った。時間をお金で買うスタイルで、ご飯を作る時間を減らしたり、論文を書くのにかかる時間を短縮したりして、他の勉強、研究の時間を作る工夫をするのが大事だなと思った。

一応、論文は2報書けた(書いている)し、データ解析の知識も増えたし、コーディングも多少早くなってきて、何もしていなかったわけではないと思う。が、まだ成果になっていないので、何もしてないともいえる。とにかく、2年の間に力をつけた部分を駆使して、さっさと卒業できるように頑張りたい。

来年の目標は年の初めにでも落ち着いて考えようと思う。

 

おわり

 

(つづきは長い長い愚痴)

今年の2月頃に書いた論文のドラフトのコメントがついに助教から返ってきた(これ<2021年12月 - いぬ小屋>を参照)。常日頃忙しい忙しいと言っているし、D論には関係しない論文だし、この際10か月も放置されていたことは別にいい。そもそも、教授からも放置されている。

しかし、あまりにも適当な修正を入れるのはやめてほしい。「引用ミス、誤記がそのまま放置される(これは誤記した私も悪い)」、「アブストに書いた主張と真逆の主張を結果に加筆する」、「科学的でないコメントを入れる(もうちょっとバイオマスについて言って欲しかったな、20℃の時は一番地上部地下部とも元気、とか?【原文ママ】)」*1。...ナニコレ。これで、コレスポを名乗るの?

今まで、私のD論のほうに関わる論文にも、碌なコメントが入らなかったのだけれど、そもそも内容が一般的なバイオ系の研究よりもインフォマティクスの比重が大きくなってしまったこともあって、コメントするのは難しいんだろうなと思う余地もあった*2。今回の論文は、内容的には学部1、2年生の知識さえあれば理解できるはずのシンプルな内容なのにも関わらず、この程度のコメントしかなく、一番重要なディスカッションの部分には、修正も良い悪いのフィードバックも一切なかった。...この人、何もわかってないんじゃないの。

この助教にイライラさせられることがあまりにも多く、彼女についていろいろ分析をしてみることにした。人間は理解できないものに対して怖がったり、イライラしたりするのだから、きちんと分析して理解したほうがいいはずである。

以前にも愚痴った(2022年9月 - いぬ小屋)通り、この助教の性質は「勉強しない、自分で考えない(人の言葉を借りる)、根拠のない考えに固執する、スケジュールにルーズ」である。ついでに、前回書いていなかった助教のダメな点として、何回実験条件の話をしても、翌週のミーティングの時にはすっかり忘れているというところがある。メモもしているハズなのに、「記憶力が悪い」。条件や測定項目が多いので2~3回聞き返されることは別に問題ないが、7~8回説明してもまだ覚えていないのには正直呆れてしまう。特に、研究予算に大きく影響する微生物叢の分析については、「予算次第ではあるけれど測定したい」とずっと説明していたのにも関わらず、忘れている。結局、その予算次第の測定についてはB4くんの研究として扱うことにした(私が勝手に決めた)のだけれど、一応測定したいと伝えたときに「そんなに分析する予算がない」と初めて聞いたような顔で言われた時には、さすがに殴ってもいいんじゃないかとすら思った。

...話を本題に戻すと、これらの性質は「主体性がない」ということに集約されるのではないかと考えた。ここで、主体性のない人間が行動するモチベーションは何なのか、何をドライビングフォースにして活動しているのかという疑問が湧いた。暫定的な結論としては「褒められ」ドリブンではないかと推察している。

以前、彼女が漏らしていた「研究賞をもらっているのに、研究科長からきちんとした評価を得られない」という不満の言葉が、私の頭の中でずっと引っ掛かっていた。ノーベル賞ならともかく、女性限定の賞は意味ないよねと私は思ったけれど、おそらくこの発言を聞いた当時は拗れた関係ではなかったので適当に聞き流していた。しかし、この発言こそ、彼女が「褒められ」ドリブンであることを如実に表している。「賞をもらった(=褒められた)のに、研究科長からは認められない(=褒められない)」という、彼女の中での矛盾があり、それが不満であったのだと思う。

「褒められ」ドリブンが根底にあることは、「主体性がない」ことに矛盾しない。自分事ではないので、実験条件の話を何度聞いても覚えられない。褒められれば良いので、必ずしも勉強をする必要はない。実際に、勉強をしていない彼女であってもいくつか研究賞をもらっている。自説を展開するよりも、偉い人の主張と同じことを主張したほうが、偉い人から褒められる(あるいは認知される)可能性は高い。主体性がないので、自ら期限を決めない。彼女の問題点のすべてが「褒められ」ドリブンに帰結しているように思う*3

研究することと褒められることは対極にあるものだと思う。新しいことを見つけることは、誰もやっていないことを見つけることであり、時には誰かのことを否定する必要があるし、否定されることもある。これまでの科学の歴史の中でも、非常識な学説を唱える人がすぐに科学コミュニティの中で受け入れられてきたわけではない。研究に重要なのは、「知らないことを知りたい、見つけたい」という内発的な動機であったり、外発的なものであっても「社会の課題点に対する改善」のような動機であると思う。前者は当然のこと、後者であったとしても、「研究者の中での良し悪しの価値基準(後者の場合は、社会はこうあるべきという価値基準)」が、その人の中での研究の意義や位置を定めている。「褒められ」を研究の動機にすると、自分の判断基準の中に他人の判断基準がコンタミして、いつまでたってもその研究者の中での研究の意義や位置が定まらない。

結局、私が感じているイライラはこの助教と接している限りなくならないと思う。だから、早く卒業しよう。あと、愚痴はこれっきりにしようね。

 

ちなみに「普通」の指導教員が論文に赤を入れるときって、どんな感じなんですかね。また教えてください。

 

おわり

*1:色の変化(クロロシス、根の褐変)について言及することは他の論文でもよくあるけど、元気って...。小学生の理科の観察か?

*2:それでもコレスポなら勉強しろよとも思う

*3:根拠のない考えに固執する点は、人の話を鵜呑みにする点に結びついていると思う