2022年9月

バッティングセンターに通う日々。

ICP-MSでの元素分析に手を付け始めた。研究室内にはICP-MSを使い倒している人がいないこともあって、きちんとしたデータを出すには少し時間がかかるだろうなとは去年から思っていて、想定通り時間がかかっている(4月の時点で5月中には終わりたい、と日記には書いてあるのに、結局ここまでずるずるとやっている)。今まで測定したことのなかった元素については、ガラス器具からのコンタミが結構ありそうで、そういうことは分析の本にも書いてあるのだけれど、実際に装置をいじりながら自分の肌感覚と実際のデータをリンクさせていくのは面白い。さっさと測定を終わらせないとまずいので、面白がっている場合ではない。

 

おわり

(続きは愚痴です。)

指導教員(助教)がダメすぎて困っている。修士の頃は、研究上での関係がなかったので気づいていなかったのだけど、D進してから1年くらいしてこのダメさに気づき始めた。このダメさを、シンプルにまとめると、勉強しない、自分で考えない(人の言葉を借りる)、根拠のない考えに固執する、スケジュールにルーズ、あたりだと思う。

私の研究室は、高度なデータ解析はてんで専門外で、もともと主成分分析する人すらいなかった。そんな状態なのに、マルチオミクス解析をテーマに私の博士の研究が始まった。そのことは私自身も最初から分かっていたし、私が勉強しながら先生たちも一緒に勉強していくものだと思っていた。が、そうではないようだと気づいたのが、去年の9月ごろだった。

一人で何とか相関ネットワークの結果を出すまでにこぎつけて、グループミーティングで結果を報告した。「AはBに寄与する」というような関係性が明らかになることを期待していたのだけれど、実際にはそのような明瞭な結果にはなっていなかった。報告では、「Bとネットワーク上でつながるものはあったけれど、偽相関の可能性もある」というように、慎重に説明したつもりだったと思う。しかし、何度言っても助教は「Bとネットワーク上でつながるもの」に固執した。

去年の11月ごろに、この解析結果を使って助教が発表する機会があり、どんな発表をするのだろうかと眺めていたが、あまりにも勉強不足、練習不足な発表を聞かされてがっかりしてしまった。データ解析の流れなどはゼミでも説明していたけれど、明らかに理解していないような発表だった。

今年の1月ごろは、助教が関わっている共同研究の申請書のイラストの作成を手伝っていたと思う。共同研究先は環境分析インフォマティクスの手法を積極的に取り入れている研究室で、私も去年からお世話になっている。提出の一週間前くらいに突然助教からのイラスト作成の指示が来たり、その指示が曖昧で困ったりしたけれど、それ以上に肝心の研究計画書に書いてある内容もハチャメチャだったことにはあきれてしまった。研究課題の流れに一貫性がなく、これまで出てきた結果のつぎはぎ、という印象だった。やっぱり、データ解析のことが分かっていないし、勉強していないんだろうなと確信するに至った。幸いなことに採択はされたのだけれど、申請が通らなくてもおかしくないと思っていた。

助教はいつも誰かの言葉を借りて話していると気づいたのは、4月ころだったと思う。共同研究先の先生が「メソドロジー」というキーワードを言っていて、私はいまだにその先生が意図するところを正確には分かっていないのだけれど、助教は馬鹿の一つ覚えのように「メソドロジー」と言っている時期があった。学振の申請書を助教に添削してもらったときは、「去年の申請書の添削面談の時にほかの先生がこう言っていたから」と言って、わけのわからない文章を追加してきたりした。消して提出した。

7月には、企業との共同研究で何をしたらいいかわからないといっていて、目玉が飛び出そうになった。情状酌量の余地があるとすれば、その企業自体は寄付講座を作っている都合上仕方なく共同研究しているようで、あまり強い目的がないようなのだけれど、研究者の口から出てくる言葉ではないと思う。課題を自ら発見して、研究して、解決するのが研究者ではなかったのか。

8月末には、やっと書き上げた論文のドラフトを助教に原稿を渡した。1週間後の定例ミーティングでは、原稿を読んでいない様子だった。子細なレビューはしないまでも、大まかにコメントしてくれるくらいのことは多少期待していた。科研費の申請書で忙しいので仕方ないと思い、待つことにした。2週間後、卒論生のテーマのことで話すことがあり、ついでに原稿を読んでいるかを確認してみた。イントロの前半は読んだとのことだった。つまり300 wordsくらいしか読んでいないらしい。まあ、科研費の申請書の大詰めの時期だし、これも大目に見よう。が、その時の助教の「タイトルを変えたほうがいいと思う」という言葉には、耳を疑った。イントロしか読んでないのに、なぜそんなことが言えるのだろうか。正直なところ、決定的なデータが不足していることもあって、タイトルは保守的(キャッチーではない、あるいは少し内容が分かりくい)にしていて、私自身はかなり悩んでつけたものだったし、真剣にディスカッションしたい部分でもあった。それを、イントロしか読んでいない人間に、テキトーにコメントされる腹立たしさはかなりのものだった。

あと細々としたところでは、オープンキャンパスの2、3日前に、ポスターを修正したいから一部イラストを作ってくれと言われたこともあった。指示は無視した。ずっと前から予定が決まっているイベントなのにも関わらず、なぜ直前に言うのか。それから、他の子は、助教が別の大学の准教授の公募に出す資料をまとめる手伝いをさせられていた。それ、自分の転職資料、だよね…。

この二年間の助教の観察を通して、この助教には科学者としての基本的な資質がないと言わざるを得ない。専門外の分析装置やデータ解析の手法・アルゴリズムが分からない、理解しようする素振りがない、そんな状態で出てきたデータを批評的にみることもできず、表面的な結果の解釈に終始する。極めつけは、結論(というか、思い込み?)ありきで議論をしようとする。そもそも、この助教が研究しようとしている内容は、他の誰かが考えたことをトレースしているだけなんじゃないだろうか。私も半人前の分際で、人のことをとやかくの言う資格はないのだろうけど、せめて分かっていないことを分かろうとする努力をみせてほしい。そのくせ、大学総務から降ってきたしょうもない雑用に真剣に取り組もうとする。優先順位のつけ方を間違っている。

研究者ごっこはやめてほしい。

最近はもう助教のいうことには耳を貸さないようにしているし、何ならそういう態度を思いっきり顔と行動に出してしまっている。あまりにも子供じみた対応をしてしまっているとは思うものの、こんなテキトーな人間の、テキトーな言説を受け入れて失敗した日には、自分に対して腹が立って仕方がなくなると思う。私もまだ学生で指導されるべき存在のはずだと思うのだけれど、こんなことならいっそ全てを無視して、独力でやって失敗したほうがいいと思う。というか、そうしないといけない。

私が修士だった頃、進路の話題になった時に、この助教は「なんとなく今のポジションにいる」というようなことを言っていた。「なんとなく」のなれの果てがこれなのかなと思う。少なくとも、就職するまでは私も「なんとなく」派の人間で、みんなが就職するからなんとなく就職した。でも、その選択後の結果は自分の中で納得がいくものではなかったから、そういう考えかたはやめた。今のところはできる限りは自分の力を高めたり、突き詰めて考えたり、分からないことを分かろうと努力していくのが大事だと思うことにしている。立ち止まっていることのほうが多くて、まだまだ実践できてないけど。

 

皆さんの指導教員はどんな感じですか、わりと切実に知りたいです。

 

おわり