2020年12月①

アドベントカレンダーの6日目に掲載させて頂こうと思い、これまでの振り返りと来年以降の抱負を記載します。今年の10月に3年半勤めた会社を退職して博士課程に進学しました。企業での就業期間が2年以上あったため、受験区分上では社会人特別選抜の枠での受験でした。

会社を辞めて(あるいは社会人博士として)進学する人は探せばいるし、ウェブ上でも情報はあるにはあるのですが、情報が充実しているとも言えない(特に情報科学系への偏りがはっきり言って食傷気味なほど顕著)ため、私の拙い経験談も何らかの助けになればと思い記載する次第です。匿名性は確保しつつも、詳細に記載するつもりです。私自身、ウェブで読んだいろいろな人の記事の一部は参考になりましたし、ふわっとしたポエムは何の価値もなかったように思います。対外向けに書く以上、価値のあるものにしたいと思っています。なお、あくまでもn=1の意見であることは念頭に置いて読んでもらえると幸いです。退職を決めた時の気持ちは2020年6月の記録にも書いているので、興味のある方は参照頂ければと思います。

ちなみに、このアドベントカレンダーにたどりつく人は、「企業に勤めているが研究開発職ではなく、大学に戻って(あるいは研究開発の部署に異動して)研究をしたいと考えている人」または「現在企業に勤めており研究開発職ではあるが、自身の思い描いていた研究とのギャップに悩み、進学を検討している人」とかだと、勝手に解釈します。私の場合は、前者ですので、そういった方向けに情報になると思います。

一部注釈がついていますが、本筋には何ら関係ないものですので読み飛ばしていただければと思います。だいたいは愚痴です。

以下、目次です。

 経歴

生い立ち

就職するまでは東北から出たことはありませんでした。秋田で生まれて、青森を経由したのち、仙台で育ちました。身近な親類には研究者はおろか、大学院まで進学した人はいません。子どもの頃から昆虫オタクだったり、機械オタクだったりもしません。小学生の頃は青森に住んでいたのですが、空き地にできた雪山(除雪車が運んでくる)に穴を掘って寝転んで空から降ってくる雪をぼーっと眺めるのが好きな子供でした。子どものころから絵を描くのは好きで、今もだらだらと続けていますが趣味で絵を描く域を出ないです。

大学

工学部機械系から環境修復の研究室へ入りました。私が高校生くらいの時から再生可能エネルギーがもてはやされ始めた(と記憶しています)こともあり、入学当時から再生可能エネルギー関連の研究はしたいとは考えていました。そのため、そういった研究ができそうな機械系を選びました。...というのは建前で、機械系なら就職のつぶしが効くことと、研究室数が100近くあり入学後に気持ちが変わっても別の選択肢を選べるということが、当時の学系選択の理由だったと思います。その後、環境修復の研究室にたどり着くことは私自身予想していませんでしたが...。ただ、今でも再生可能エネルギーに関しては興味はあり、研究室では微生物燃料電池の研究もしているので、うまいこといっちょかみできないかなと虎視眈々と狙っています。

修士のまでの研究

修士までは圃場で植物を栽培したり、ポットで植物を栽培したりしていました。農学部ではないです。XRF、ICP-MSを使って土壌中の重金属の溶出の評価や、植物中の重金属の蓄積量の分析をしてたので、環境分析屋さんという感じでしょうか。研究室に配属された時点で博士に進学するつもりは毛頭もなく、とはいえ、どこかの企業に就職して働いている姿を明確に思い描いていたわけでもないのですが、結局、大多数の同期と同様に就活を経て、企業に就職しました。

修士の研究は、いわゆる努力賞レベルだったと思います。研究に関する受賞歴は全くないですし、論文も出していませんでした*1。研究自体の営み非常に楽しく、一生続けられるかもという漠然とした思いもありましたが、M2の初めくらいまでは、研究者を目指すほどの決定打もなく、研究者になれるほどの能力があるとも思っていませんでした。

ところが、M2の半ばに、他研究室に依頼した分析から、思ってもいなかったようなデータが出てきて、今までにないくらいに興奮したことを覚えています。しかし、既に内定をもらっており、そこを反故にしてまで研究を続けていくという、レールを外れた行動を取るほどの決意も覚悟も、当時に私にはありませんでした。結局、当たり障りのない結論を修論にまとめて卒業しました。

なぜストレートに博士課程に進学しなかったのか

上記の内容と重複しますが、修士での研究を進めていく中で研究(者)への適性はあると感じていましたし、一生続けられる職業にできると感じていました。一方で、自分自身の能力には疑問があり、中途半端な人間が進学しても、職に就けないのではという不安もありました。博士号を足の裏の米粒に例えることがありますが、やはり当時の学生内でもそういう風潮だったと思います(今でもそうだと思いますが)。

研究者として突き進む決定打もなく、何かに裏付けられた能力への確信もなければ、大多数のひとと足並みをそろえて就職するというのは、当時の私にとって次善の策でした。しかし、この時に最善の策を得ようと努力しなかった私自身の怠慢が、企業で3年半働く間に感じた後悔や不満の原因にもなっていたと思います。ただ、これは完全な結果論にはなってしまうのですが、工学部の人間にとっては企業での活動を経験できたことは、大きな経験にはなったと思いますし、今後の研究の何かの糧になっていくのだとも思っています。

前職について

環境関連のプラントなどに関わる企業で働いていました。プラントの開発(1年目)、開発兼設計(2年目)、設計兼技術営業的な何か(3年目)と、いろいろな経験(たらい回し)をさせてもらいました。プロセス設計には携わっていましたが、土木、配管、電気計装、機械の詳細設計の知識はからっきしなので、半人前にもならずに辞めてしまったという感じです。プロセス設計は新人でもできるような機械的な作業も多かったですが、突き詰めて考えるには機械、土木、電気、各種法令などの広範な知識が必要とされるため、非常に奥が深かったです。研究を続ける意思がなくなったら、プラント設計に骨を埋めようと思っています(雇ってくれるところがあれば)。誰の役にも立たない研究をするぐらいなら、誰かの役に立つことをしたほうが、自分の存在意義を見出せると思います。会社内には、目先の利益ではなく、もっと大きな社会的な意義を仕事に感じ、そういったことを教え諭してくださる人はいましたし、そういった人の姿はとても尊敬できました。

1年目

1年目は開発部門に在籍できたわけですが、配属当時は大学の研究とのギャップに割と失望した記憶があります。まともに論文にアクセスする方法もなく、どうやって研究するのだろうと。つい先日、Dを取って企業の開発部門に就職した同期と話したのですが、私が就職した当時と同じような思いを抱いているようでした。それから、実験計画を提案しても、修士も持っていない先輩に無下にされるとか言っていました。少なくとも日系大企業では、どこも似たような環境なのかなあと思います。

私が入社した当時、部署での開発案件はA、B、Cの3つがあり、どれも開発期間的に案件の進退がかかっている時期だったため、毎日進捗管理されプレッシャーがすごかったです*2。10年目くらいの先輩が上司にしょっちゅう怒られているのを見て胃がキリキリしていました*3

ちなみに、開発部門に在籍できたとは言え、開発案件が事業化するかどうかというタイミングだったため、基礎的な研究開発をすることは少なく、もっぱら案件Aのプラントの運転要員として汗を流していました。また、装置の設置に間借りしていたのが他部署の敷地だったのですが、いろいろあったことで*4この部署間の垣根の高さに気付き始め、あまり会社で研究をしたくないという気持ちになっていったように思います。また、今になってみれば当たり前なのですが、会社での研究開発というのは、もっぱらデータ取り以上のことは求められないということも、このとき身をもって体感しました。

2年目

プラント運転員として汗を流している間に、部署が解体されることを伝えられ、あれよあれよという間に設計になりました。といっても、メンバーは変わらず*5、取り組んでいた開発案件も、Aは継続、Bは客先の出方次第、Cは終了というように、一部は継続していました。設計と連携して事業化を進めよ、という幹部からの指令だったと思います。上司からは「設計に来た以上は(開発とは関係ない)設計もやってもらう。それから案件Bをやっていた先輩*6が出向したから、案件Bのほうを担当してもらう」というようなことを言い渡されるわけですが、拒否権は当然ないわけです。

2年目の6月くらいからはこちらの会に参加したりして、博士進学を考え始めました。2年目の半ばには、研究したいという話は上司にしていたかと思います。ただ、この時点で既に会社で研究をしたいという気持ちは7割くらいは消え去っていて、ほとんどポーズだけの研究したいアピールだったような気がします。1年目に感じた部署間の垣根の高さ、研究という名のただのデータ取りという事実を身をもって体感した以上、M2の半ばに体験した興奮は会社の研究では得られないことは分かっていましたし、あのときの興奮を自分は求めているのだろうとうすうす感じていました。

仕事のほうはというと、案件B絡みで社外向けの報告書を作ったり、突発の社外からの依頼試験に対応したり、プロセス設計の丁稚奉公的に働いていたりして、3年半の中ではなんだかんだ一番自分の適性に合っていて楽しかったです*7。社外からの依頼試験の対応の際には、久しぶりに論文を読んで、いろいろ考えて実験できたりもして、やれることと予算は限られていたものの、やっぱりこういうことが好きなんだということを再認識できたと思います。

3年目~3.5年目

3年目の初めの頃にも、博士号を取りたいという趣旨の話を上司にした記憶があります。上司からは、一応社会人博士の話もされました*8。しかし、社会人博士をやるためには、「研究開発の部署に異動する(いつかは保証されない)→研究開発でそれなりの成果を出す(2~5年くらい)」というような流れになるだろうということは伝えられ、今からでも大学でされているような研究に関わりたいと思う人にとっては、あまりにも気の長い話でした。それに、3年目の初めの時点で「博士号は会社で働く上では必要性はなく、あくまでも自分がしたいと思った研究(あるいは行動)をするために必要なもの」だという認識になっていたと思います。振り返ってみれば、この時点で辞意を伝えることもできたように思いますが、会社で経験しておくべきこともあるんじゃないかという迷いもあり、決断には至りませんでした。

業務のほうはというと、3年目にもまた部署を異動しました。1年目から2年目の時と同じように、実質は2年目の業務内容と変わらないと思っていたのですが、また雲行きが変わっていきました。グループは開発案件A、Bを継続する(&設計)チームと、社内の調整をするチームが一つとなったグループ(PMではないです)になりました。本来はこの2つのチームは同じグループである必要性が全くないのですが、ざっくりいえば社内の人員不足によってこのグループが誕生しました*9

5月頃までは2年目の時の業務をそのまま継続していたのですが、こんなめちゃくちゃなグループが誕生した以上、私の業務がもめちゃくちゃになるのは必然でした。開発&設計チームから外れ、社内の調整する業務をしていくことになりました。初めは、後任の人が来るまで代理として補助的に業務に関わってほしいという話だったのが、気づいたら主担当の案件を持たされていました*10。12月から4月末までは、もはや仕事以外のことを考える余裕もなく、この戦いが終わったら博士課程に進学するんだ、ということだけを考えていたと思います*11

3年目では、技術とかそういうきれいごとだけじゃ世の中は回っていかないということを身をもって叩き込まれたように思います。なお、対外的には存在しないことになっているチームだったので、詳細を書くのは避けました。やや激務でした。非常にに責任も重く、3年目のぺえぺえが完璧にこなせる業務ではなかったですし、会社としてやらせるべき業務でもなかったと思います。しかし、この経験があったおかげで、退職する決断ができたように思います。

なぜ社会人博士を選択しなかったか

残念ながら前職には、社会人博士に関する十分な支援はありませんでした。私の前職の会社で社会人博士をやるとすれば、①会社がつながりたいと思っている研究室に行く(会社の業務に関連する研究、会社の支援あり)か、②通える範囲の大学の研究室に行く(会社の業務に関連しない研究、会社の支援なし)の二択だったと思います。おそらく①のほうで社会人博士をされていた方もいましたが*12、優秀な方だったので、私には両立は無理かなあと思ってしまいました*13。特に、②の会社の業務と関連しない研究の場合、なおさら不可能のように思いました。

②の選択肢は実質不可能で、①の選択肢も上述した通り、あまりにも長い期間が必要でかつ、(経験上)その保証もされないであろうということを考えれば、必然的に退職するという選択になりました。

研究テーマを変えるか否か(出戻りか他研究室か)

修士の時の研究内容を突き詰めたかったこともあり、私の場合は結果的に出戻りという選択をしました。ただ、消極的な選択理由を言えば、研究室を変えた先がブラック研究室であるというリスクを避けたかったという点があります。テーマを変えてみるのも面白いと思ったりもしたのですがリスクが大きいわりに、そのリターンも読めないということもあり、あまり積極的には研究室を変えるための行動はしませんでした。ちなみに、退職してD進した人を2人ほど知っていますが、どちらもやはり出戻りです。

お金の話

退職して進学するにあたって気になるのはお金の話でしょうか。400万くらい貯めれば、2年くらいは生き延びれると思っています。10月は入学金や引っ越しの出費もさることながら、罷業資金の返還や持ち株の売却で想定していなかった収入も多かったのできちんとした数字ではないですが、10月時点での口座残高は350万くらいでした(生き延びれるんですかね?)。お金に無頓着な性格なのであまり参考にならないかもしれないですが、試算できるように一応いろいろ書いておきます。2020年度分のお金関係の処理が終わったら、もう少し追記したいと思います。

  • 収入:学振や給付型奨学金の目途をつけてから進学できるのが理想なのでしょうが、私の場合は完全自費なので、特に書くことがないです。博士の場合、大学独自の給付奨学金こういうのとか)もあったりするので、そのあたりを調べておくのが吉です。
  • 入学金と学費:入学金が28.2万円、半年の学費が26.8万円です。研究室のボスから入学金について教務に問い合わせて頂いたのですが、出戻りの場合でも入学金は必須ということでした。ダメ元で学費免除の申請してもよかったかなあと思いつつ、曲がりなりにも社会人として働いていた以上、学費を払うのは責務かなあと思ったり。
  • 確定申告:10月入学で9月いっぱいまで働いていると、確定申告が必要になるので、特に理由がない限り4月に入学するほうが、余計な作業は発生しなくて良いと思います。
  • 賞与:前職の賃金規定では、賞与支給以前に退職届が受理されている人には賞与が支給されないという規定がありました。(つまり、会社に迷惑をかけないように早めに退職の話を進めてしまうと、賞与がもらえない)。賃金の支給規定などはしっかり読んでおくことをお勧めします。
  • 国民健康保険:独身の場合には、国民健康保険に入るほうがおそらくお得です。自治体ごとに異なるので、自分で計算してください。ちなみに、9月末までで所得(額面)が377万円、月額の保険料(仙台市)は3.7万円でした。
  • 国民年金保険料国民年金には学生納付特例制度があるため、20歳を超えていても学生であれば年金の支払いは先延ばしにできます。しかし、10月入学で、9月まで働いている場合は、所得があるので、学生納付特例制度が使えません。その場合には、退職時の特例制度を使うことで、納付年金課の方の話によると、退職時の特例制度があるそうで適用されれば前年度の所得がゼロとみなされるそうです(私は結局その制度を使っていませんので、詳細はご自分で調べてください)。離職票が必要なので、退職して進学する場合でも退職までに発行を依頼しておくのが吉です。詳しくは、日本年金機構のHPを参照してください。以下は該当部分の抜粋。

会社を退職した方
 → 失業による特例免除(下記3.をご覧ください。)
 世帯主・配偶者 各々の所得審査を行います

3.失業等による特例免除
失業した場合も申請することにより、保険料の納付が免除となったり、保険料の納付が猶予となる場合があります。免除・納付猶予申請書を提出される際は、次の書類が必要となります。

(1)雇用保険の被保険者であった方
雇用保険受給資格者証の写しまたは雇用保険被保険者離職票等の写し

 

進学後の研究の話

3年ほどブランクがあると、修士と同じ研究室であっても研究テーマは必然的に変わると思います。私の場合はウェット半分、ドライ半分くらいのテーマに移りました(研究計画を立てている真っ最中なので具体的なことは何も書けないのですが)。知り合いに2年ほど企業で研究員をしたのち、退職して進学した方(生物物理化学系)がいるのですが、その方も研究テーマが変わり、1年ほどは成果が何もなかったとおっしゃっていました。 

今後の抱負

研究室の規模は大きく、広く研究できるのですが、いまいちみんな個人個人で研究しているのでうまくまとめて自分の研究にも反映していければいいなあと思っています。

 

おわり

2020年12月25日:一部加筆修正

*後でまたお金関係の話を加筆すると思います。

*1:実際は卒論の内容を英語でまとめてはいたものの、うやむやにされました

*2:一度寝たら起きないタイプなのですが、就職直後は夜中に冷や汗をかきながらはっと目が覚めたりしました。次第に慣れましたが。

*3:新人の目から見ても、先輩に明らかに落ち度があったので、パワハラが多かった職場というわけではないです。入社して早々そういう姿を見せられるのは、あまり胃にやさしくないですが。

*4:他部署のおっさんに電話越しでくそ怒られました。上司はこてこての関西人といった感じの人柄で、会社内でも顔が効くほうだったと思いますが、それでもこの部署とのやり取りは少し気を使っていたようでした。

*5:10人から6人に減りましたが

*6:しょっちゅう怒られていた先輩

*7:給料を得ていた以上文句は言えないですが、もう少し若手にやさしくしてくれたらありがたかったかなあとは思います。開発に全く関与していない案件Bの開発完了報告書を書いたり、本格的なプロセス設計を半年も経験していない私がプロセス設計チームの責任を軽く負わされたりと、それなりのしんどさもありました。

*8:上司もDは持っていました

*9:話がややこしすぎて、仔細を書く気力がありません

*10:先っちょだけ理論は非常に有効。

*11:もちろん死にました、案件が

*12:以前の記録では②のタイプと記載していましたが、会社の開発機種に近い研究だったことと、出社が極めて限られていたことを考えると①だったかなと思います。お互いに激務だったこともあり、直接本人に聞く機会がなかったのが惜しまれます。

*13:その方は、研究と業務の山が重なったタイミングでは、夜中の3時くらいに仕事のメールが飛ばしていたとのことです(伝聞)。